象徴としてのお務め  (第93回)

 年内の更新は、今回が最後になる予定です。これまでに勤労・財産・納税と、お金系が終わり、このあと第31条から第40条まで、十か条もかけて警察や裁判に関係する条項が並ぶ。このシリーズは新年に再開することにして、今日は第1条を振り返ることにした。

 きっかけは数回前に言及した天皇誕生日のための記者会見の記録だ。宮内庁のサイトにも出ていたので、URLを貼ります。年末も押し迫ってのお生まれなので、時期的に一年を振り返るに相応しい。
http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/7


 先述のとおり、この文中、陛下のご健康とご意向に関する8月の件は簡潔で、他は人の生き死にに関する事柄が多い。時系列で語ってみえるため、最初に1月のフィリピンご訪問の話が出てくるが、これは次回の題材の一つにしたい。今回は、これを読んで思ったこと。個別の出来事に関するものではなくて、憲法第一条のいわゆる「象徴天皇制」について。

 私のブログ更新は、基本的には条項の順番で進めているので、第1条については最初のころ書いている。改めて拙文を読んでみたが、大切なことが欠けている。「象徴」という言葉の意味にとらわれ過ぎており、「何の象徴か」ということについての検討が一切ない。無残である。


 これでは無事の年越しも危ういので、今のうちに補足する。第一条と、その英語版を再度、転載します。
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

Article 1. The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the People,
deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.


 象徴天皇制とは、第一に、天皇が二つのものの象徴であることを定めた憲法の制度だ。一つは「日本国」(英語では、the State)、もう一つは「日本国民統合」(the unity of the People)。なお、この憲法案はGHQアメリカ人が考えて押し付けたというのが、もっぱらの説だが、この短い文に”United States”の国名を入れ込むとは、たいした腕前です。

 国の象徴というのも、分かったようで分からないままなのだが、例えば先日、90歳の御誕生日を迎えられたエリザベス女王は「イギリスの象徴的存在」だと言われても違和感はないので、取りあえず、制度的に英国の真似が多い日本政府だから、立憲君主国において君臨すれども統治しない人のことだと考えよう。以上、ちょっと慌ただしく通り過ぎたが、それも今日の本題が、もう一つの「日本国民統合」のほうだからなのです。


 これまで、何となく「日本国民の象徴」だと思い込んでいたのだが、実際には「統合」の二文字が入っている。単なる代表者ではない。他の箇所にも書いてあるが、代表者とは選挙で選ばれた人たちのことだ。それにしても、統合の象徴とは、聞き慣れないというか、他で聞く機会などあるまい。

 改正草案が持ち出した「元首」という概念・呼称は、おそらく対外的な存在意義を強く意識したもので、前にも書いたように、元首がいない昭和・平成の日本でも、全く困らない。その評価も様々のようだが、相手が天皇とは何かを自分たちで決めてくれている。


 一方で、「象徴」とは、それも特に「統合の象徴」とは、国内に向けた言葉だと思う。日本国民がバラバラでは、外国人は別に困らないだろうが、うちの政府も困るだろうし、何よりも国民主権というとき、国民の一人につき主権一つでは、国とは言えない。チャーチルを信じるなら、民主主義の基礎として一人一票はあるのだが、「主権の存する日本国民の総意」が象徴天皇制を始め、憲法の拠り所のはずだ。

 抽象論になっている。では、先に引用した天皇誕生日のメッセージを例にとろう。かなりの部分が戦争や災害の被害者への思いであり、それに基づいて行われた事々である。8月の「お言葉」においては、これを「象徴としての務め」と表現されていた。それを聞いても、ほとんど誰も国事行為のことなど連想するまい(国事行為を軽視しているのではありません。宮内庁の記事にあるとおり、これはこれで大変なお仕事だ)。


 分からない人には、幾ら言っても分からないが、健康や年齢の事情で十分に務めることが難しくなってきたと云ってみえたのは、宮中祭祀でも国事行為でも皇室の存続のことでもない。きちんと理解しているのは、その他大勢の、象徴されている一般の人々だ。


 私たちは、なかなか被災地や戦跡には行けない。お金や時間のこともあるが、そもそも行ったとて、手を貸すことでもできれば御の字であり、傷ついたままの人の心に触れることは容易にできない。何しに来たということにさえ、なりかねない。かくして象徴としてのお務めにお力が入るのだが、義務感だけでやってみえると思ったら間違いだ。これは国民に向けてのお手本でもある。

 ほんの少しでいいから、こうしたらどうかという姿をお見せになるのも務めだというのが、今上におかれての象徴の在り方に違いない。制度の話ではない。この記者会見には含まれていないことだが、2年前、平成二十六年の誕生日会見記録によせて、宮内庁が記載している文中にこういう一節がある。


 この折に,登米市の国立療養所東北新生園をご訪問になり,霊安堂にご供花の後,入所者とご懇談になりました。ハンセン病療養所は全国14か所ありますが,両陛下は,このご訪問により昭和43年の国立療養所奄美和光園(鹿児島県奄美市)ご訪問以来,全ての療養所の入所者とお会いになったことになります。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h26e.html

 ハンセン病の患者さん達の強制収容は、憲法17条に定められている国家損賠償請求に該当する事態ということで裁判が起きた。国が大敗し、控訴すら諦め、立法府も行政府も司法府も謝罪した。なぜなら、上記の14か所の療養施設のうち、13か所が国立で、法律に基づき国が隔離政策をとってきたからだ。憲法第三章の幾つもの条項に抵触するだろう。


 かつての戦地もハンセン病療養所も、この国家が散々、迷惑をかけた相手に、両陛下を始め皇族のみなさまが果てしない慰霊と贖罪の旅を重ねていることについて、今の権力者はどう思っているのか、ぜひお聞かせ願いたいものである。万が一、そういう時が来たら、棒読みしないでくださいね。

 そして、国民に対しても、口には出さねど伝えたいことは同じであるはずだ。今上のお言葉には、「力を合わせて」「共に支え合って」という言葉が良く出てくる。「統合」というのは、そういうことだろう。余りたくさん書くと、ぼろが出そうなので、このへんで止めます。みなさま、どうぞ良いお歳をお迎えください。






(おわり)







昔は鏡餅の上に、こういうのが載っていたような気がする。
(2016年12月21日撮影)








クレーのカレンダー 2017年
































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