ミリタリー・コントロール  (第171回)

 雑誌「ざっくばらん」の巻頭論文20選という副題のついた「天下国家を論ず」という本がある。奈須田敬著、並木書房(著者の会社)、2011年7月発行。その時期だったから、あとがきに、「現実は見るとおりの悲惨さ」、「日本国民は肩をこすりあわせて生きのびていくほかあるまい」と記しつつ、7年前の3月11日以降のボランティア活動に心を動かされたか、「九十年の歳月も決してムダではなかったと思いたい」と結んでいる。

 今は亡き奈須田さんは浅草生まれで、元陸軍の飛行機乗り。これ一冊しか読んだことがないので、他に詳しい経歴等を知らないのだが、著者紹介の欄には、言論の不自由に抵触したらしくて、憲兵に捕まっている。思想的過激派ではない。保守本道の言論人だと、この本を読んで思った。


 聞いたことがない名前だということで、ネットで調べられるのであれば、ご注意願いたいことがある。奈須田さんを、軍国主義右翼と勘違いしている者、あるいは意図的にそのように位置付けたい者の書き込みがある。それを読むなとは申し上げんが、どこかでバランスをとる必要があると申しおきます。

 そういう受け止め方をする人がいるのも仕方ないところがあって、たとえば最初の章の名が「政治家は政治家らしく、自衛隊は軍隊らしく...」というものだ。この本の主たる題材は、くりかえし文中に出てくる「自衛隊」と「シビリアン・コントロール」とは何か、これらはどうあるべきか、という点にある。


 現在の憲法改正の議論(自民党を中心に行われているもの)は、報道されている限りにおいて、第九条の文章・構成をどうするかという議論ばかりで、また、護憲の人たちは絶対反対の一本鎗である。

 ただし改憲をもくろむ議員らは、すでに「直しやすいところから、直していけばいい」と公然と語るようになった。老い先短くて焦るのも分かるが、有権者としては、次の手は何だと考えなくてはいけない。そう遠からず、災害対策を口実に、緊急事態の条項新設の話が出てくるはずだ。そして、これらに合わせて自衛隊ほか、安全保障に関する法令や組織を続々と変えていくだろうと思う。


 追って話題を重ねていけたらと望んでいるのだが、私が二十代だった1980年代というのは、象徴的に言えば中曽根長期政権に代表される、右傾化の時代です。それまで盛んだった左翼活動が自滅するように衰え、戦争で子を失くした人たち(私の祖父母の年代)が世を去り始めた。奈須田さんは、こう書いている。

 「八十年代のある時機に『内閣総理大臣ハ陸海空軍ヲ統率ス』と憲法に明記することになるのか、ならないのか」。こういう書き方をしていることから推測するに、著者はこの「改憲」仮説に対する積極的な賛成・反対を論じているのではなく、このあとの書き方でも伝わってくるのだが、そんなことして大丈夫な段階なのかというのが懸念材料となっている。


 なんの懸念かというと、一つは先ほどの話に戻るが、防衛庁防衛省)・自衛隊およびミリタリー・コントロールの体制や考え方が成熟しておらず、また同じ失敗を繰り返しかねないという主張なのだと、私は理解している。

 シビリアン・コントロールについては、例として犬養毅とチャ―チルが登場するが、ユニークなのは、彼らが一人で制御していたというのではなく、組織なり補助者なりが充実しているからこそ、働けたのだということを具体的に論じている。


 われわれが教えられている「シビリアン・文民」とは、現実問題として私たち庶民ではなく、内閣総理大臣防衛大臣の役目であることは法的に明らかであり、少し解釈を拡げれば防衛次官、外務大臣官房長官も入るのだろう。彼らがミリタリーを「コントロール」する義務を負っている。

 しかし、どうだろう、私情を挟むが、ここ数年の首相や防衛相等の顔立ちや言動を思い起こすと、コントロールどころか、彼らがミリタリーを濫用しようと思っているとしか思えない。私は絶対護憲派というものではないが、今の時点で、憲法をおもちゃにされてはかなわん。


 先ほど引用した『内閣総理大臣ハ陸海空軍ヲ統率ス』というのは、もちろん明治憲法における大元帥天皇陛下の権限をパロディにしたものだ。また、現憲法において、国権の最高機関は国会であり、その主(あるじ)は国民です。新旧いずれの憲法においても、内閣総理大臣は大番頭みたいなものだ。どうやら、これが気に喰わないらしい。

 自衛権を、あるいは、自衛隊を安全保障機能であると憲法に明記し、抱き合わせで今の改正草案の緊急事態条項を首相が発動させたらどうなるか。テロリストが国会を狙っているという「情報」が流れたら、自衛隊に国会議事堂を封鎖させなければなるまい。象徴天皇制を残せば、首相は殿様になれる。そして緊急事態条項が盛り込まれる前であっても、こういう草案を表沙汰にしている以上、同じことは起こり得る。


 締めの話題に、「憲法九条と自衛隊」という章がある。今年は「改憲元年」になりそうだ、と書いてある。平成五年二月発行の巻であり、1992年から93年にかけて、ここでも何度か話題にした、自衛隊が初めて派遣されたカンボジアPKOの実施期間中だった。

 奈須田さんの見解では、現行の法制度で自衛隊PKOに派遣するのは「苛酷」であるとし、集団的自衛権のないPKO派遣はナンセンスとまで言い切っている。それなら派遣をやめようと、当時読んだら私はそう思っただろうが、一方で、それなら集団的自衛権を法制化しようと考えた連中がいるということだ。


 未来を語る学者といえば、私が思い起こすのは吉田松陰と先年亡くなったアルビン・トフラーです。そのトフラー先生が、同年(20年以上も前だ)、朝日新聞の取材に応えて、以下のように語ったそうだ。興味深いし、闇も深い。

 「私は憲法九条を守った方がいいという立場だが、第九条を守ることを可能にした様々な条件がいま崩れている。米国の軍事的支えが弱まれば、九条も弱まる。近隣諸国の軍事力が強まれば、それも九条を弱める。いずれ憲法は改正せざるを得なくなると思う」。


 これを受けて奈須田敬は、「日本の憲法問題(政治・外交・経済等)は、やはり、自衛隊に始まり自衛隊に終わるほかあるまい」と書いた。

 この主張と比べれば、現行の改憲論は、憲法自衛権自衛隊をどう書くか、書かないかという作文の打合せに過ぎないようであり、それとも私の不明に過ぎず、水面下ではしっかり「準備」が進んでいるのかもしれない。うちに憲兵が来ませんように。





(おわり)









東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ  菅原道真


(2018年2月19日撮影、東京の根津)










































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